例会
会員


 徳弘董斎は西洋流砲術家、南画家である。名は益、のちに益孝、通称は孝太郎、祥吉、孝蔵、号は董斎、石埭、石城。文化4年(1807 ) 8 月15 日、高知城西、中須賀村(高知市)に、保孝(号石門)の長男として生まれた。代々蕃主の側に座する御筒持役(殿様の刀を持って側に居る家臣同様に鉄砲を持っている家臣)を務めたが、文化12年島田流松木重右衛門に入 門、江戸勤番時の文政12年徳丸が原(現高島平)で高島秋帆の西洋砲術の実射演習を見学し、秋帆を訪ねて人門を願ったが、秋帆の事晴により実現できず、その紹介を得て高弟下曽根金三郎に人門、同13 年6 月免許皆伝を得た。藩は命により品川藩邸に砲台を造らせ、帰国しては政元年(1854 )以来砲術師範として小石木、仁井田浜で大砲の稽古打ちをし、門人450 人余の名簿が残さている。
 この門弟たちはこぞって董斎の指導を受け、中には坂本権平、龍馬などがいるが、彼達の多くは、後に烏羽、伏見の戦いや、会津若松の遠征に参加、土佐兵として新式砲術の成果を上げたことは歴史が示す通りである。 砲術は今の高等数学、化学、物理学、戦法術、オランダ語学などの集積であり、西洋文明の導人者として、その功績は大きい。
 一方董斎は父石門と同じく優れた南画を描き、江戸表では光明寺雲室や春木南湖らに学び、広瀬台山の影響を受けて品格の高い膨大な山水や人物図を描き、当時橋本小霞と共に土佐南画の二大名家と称された。後継者として期待をかけた長男数之助孝輝をすぐれた砲術、オランダ語学者に育てたが、猛勉学のため死亡、その子竹次郎裕孝も青年期に早世し、悲嘆の底で、維新後は南画一筋に生き、明治14 年5 月25日、75 歳で没した。近年、坂本龍馬の研究が盛んとなり、全国のファンがその足跡を訪ねて来高するにあたり、史跡観光ガィド書にも取材されているが、同生誕地に行ってみると何の標示も説明もなく、落胆して帰るケースも多くなった。また、同公園で遊ぶ児童たちにも知識もなく周辺の人々にも十分な知識が無いのが現状であった。

 なおこの地は、董斎のひ孫にあたる徳弘兔代・香代が、昭和56年1月3日の火災により逝去されたが、同女には直系の子女がなく籍は廃絶となり、今日、土地は国庫に帰し、高知市が管理責任を負い、児童の遊ぶ公園として町内で貴い都市空間となっている。

ライオンズクラブ国際協会ニュース
Connect with Us Online
Twitter